昭和52年11月13日 十三日会
月々、この十三日が御神願成就の日として、合楽ではもう椛目合楽を通して、数十年十三日会が続けられて参りました。どういう意味で十三日という日が、御神願成就の日かと申しますと、以前椛目から御本部へ月参りをさせて頂いておりました。その月参りも十三日を期してお参りさせて頂いたものです。いわゆる十三日は小倉の桂先生、初代の桂松平先生の月の命日。いわゆる帰幽日にあたるのです。
ですから小倉へお礼参拝をさせてもろうて、それから御本部へお参りをすると言う様な事でしたが、私どもの小倉へ参拝する事やら、御本部参拝を椛目だけでする事が、非常にその当時の周辺の教会の問題になりましてね。そしてお参りを憚らなければならないような事態に立ち至ったんです。当時椛目からお参りをしておりました一同の者、それこそ歯軋りして残念に、まあ血の涙の出る様な思いをした時代でしたけれども。
以来んなら十三日の日には、お参りしたつもりで朝から集まって、そして何か御用でもさせてもろうて、そして信心の研修をしようじゃないか、と言う様な話が持ち上がりました。そしてあの当時御本部をさせて頂いておる、させて頂いたつもりですから、その金額を何かのお役に立たせて頂くために、積み立てようじゃないかと言う所から、十三日会が結成されてそれで、その事のお礼お届けをさせて頂いた時に、十三会こそいよいよ神の彼岸が成就する日だというお知らせを頂いたんです。
なるほどそれからずっと考えてみますと、ならここでご普請が出けたり、またここのお土地を購入させて頂いたり、それまでは椛目には、もう一切預金と言う事を致しませんでしたから。もう月々もう全部がお供えでした。ですからここで、教会名義の貯金というのがなかったんです。ほれでそれからおかげを頂いて、教会名義で十三日会の日に集まった、その十三日会に献納する、ここで今御礼十三日会、御礼十三日会というお届けがありますのは、みんなそうなんです。
ですからいよいよ、合楽が発展をして行くと言う事の、言うならば基礎を作ったのは十三日会です。これからとてもまあいよいよ、それは発展して行く事でございましょうが、そういう神様の悲願いわゆる、神様の願いが成就すると言う事。そして今日段々いわゆる成就半ばにあるのが、今日の合楽であります。そこで神様の願いが成就すると言う事は、どう言う事かと申しますと、もちろんお広前を中心にして、ならお広前が建立されましたり、お土地が購入されたり。
もういよいよ現在ちょうど(いっちょう)ですから、三千坪ですかね余りの屋敷。今度はいよいよ向こうの方へ、今度この前の記念祭の時に、今度のビルが出け霊廟が出ける、あそこんところが、ちょうど3反ですかね、出けておりましたから駐車場として、今度使うことが出けたんですけども。今度はあそこへビルが建ち、それから霊廟が建ちますと、もう、あそこは使えなくなる。してみるとまた東側の方へ、段々拡張して行かなければならないことになると。
拡張から拡張という言うならば、それだけ沢山な人が助かって行くと言う事になっておる。その人が助かって行くと言う事が、神様の願いなんです。氏子信心しておかげを受けてくれよという、神様の願いがこの様な形で、充実して行っておるのです。ですからそれがいよいよ本当な意味においての助かり、本当な意味においての成就に、いよいよなって行かなければならないと言う事でございます。最近合楽ではもう願いの信心と言う事が、盛んに説かれております。それはただお頼みをするという信心。
ただお願いのある時だけ、悲しい時の神頼みという意味の神頼みではなくてね、願わずにはおれない心情です。それは私共がいよいよ、分かれば分かるほど、無力であると言う事が分って参りますね。だから自分が無力であると言う事。ご飯を食べさせて頂くでも、そこまで歩かせて頂くでも、もうとにかく神様のお許しを頂かなければ出来ぬ私たちであると言う事が、分かれば分かるほど、すがらなければおられんのですね。同時に私どもが拝ませて頂いておる対象、それは天地金乃神様。
それは、そのまま天地金乃神様というのは、天地の親神様。私どもの親神様であるということが、分かって来れば来るほど、すがらずにはおられないと言うのですね。先日若先生が東京へ行って、ちょうど一週間あまりで帰って参りました。帰った時に嫁も一緒に、ここにお礼に出て来ました。一番下の一恵という孫が、半年あまりになります。それが何もまだ分かるはずはありませんのですけれども、ようやく母親の顔を、まあ覚えるくらいですけれども。
一週間あまり離れておりましたもんですから、ここでおばあちゃんが連れて来ておりましたら、その嫁の顔をね、もうジーッと眺めとるんです。そして「ああ、お母さんだ」と分かったんでしょう。それはもう変な変な顔をしましてね、お母さんに飛びつくように行って、そして首にこう、しがみ付いてから離れん。もうその日一日はねもう誰が来いと言うても、来ませんでした。またほうからかされちゃならんと思うたんでしょうね。それが、親だからです子だからです。
親と言う事がわかった時点で、私どもが親神様、親神様と言うておるけれども、まだ本当になるほど親神様だなあ、ご利益だけは頂くばってんか、まあ親神様としての心情というものが、言うならば、本当に交流してない証拠です。そこでいろんな角度から天地金乃神様が私どもの親神様であるなと言う事を分からせて頂くための手立てに、いよいよ神様の教えを守る。それも言うならば、神様の御物を大事にするとか、御事柄を大事にするとかね、私どもの上にいろいろ起きてくる。
それは神様が私どもに求め給うところの修行であると言った様な、天地からそれを、いよいよ成り行きを大事にする、御物を大事にするといったような、神様の物を大事にする、神様が喜んで下さる。その喜びがこちらに通うてくるね、そこからです何とはなしに、親神様だなという体験も、だんだん積み上げられて行って、もうこの神様を外れることは出けないという信心になってくるんです。ご利益さえ頂きゃどこでんよか、と言う様な訳にはいかんのですね。
そういうところから、親子の一つの情というか、情愛というものが交流してくる。そこで、いわば縋らずには、親神様とわかるから、縋らずにはおられない。だから縋ると言う事は、親神様と言う事がわかると言う事ですから、もうこれは信心の最高の信心だと、最近言われとるわけですね。お願いは沢山してますけれども、本当の親子の心情を持ってすがるんだ、願うんだ。だからそれは痛い痒いのことから、金銭上のことから、人間関係もう、人間のありとあらゆる難儀の面を。
例えば縋らずにはおられんという信心を身につけて行こうという訳です。そこで縋るには、縋る姿勢がいるという訳なんです。2~3日前私がこの願いの信心について、色々お願いさせて頂いておりましたら、熱心に本当に真剣にすがられるある方が、串抜き団子がありますね、串に刺したこう小さい団子を、こう串に刺してやる。その串抜き団子を食べながらね、片一方の手でこうやって手をさし出しとるとこを頂きました。そしたら何かそのやる方がね片一方の手じゃ、受け取られんという風に言われた様な感じです。
そしたらその団子を口にパッとくわえてね、そしてこうやって手をさえ出したとこを頂いた。こんな無様な手の差し出し方があるでしょうか。まあ串抜き団子を食べておるというのは、まあ人間が誰しも持っておる卑しい心だと思うんです。だからせめてすがる時、頂くときは、お頂戴をして頂かなきゃいけないというわけ。そんなら口に銜えとるもんな一遍、そん時だけでも良いから下において、縋らないかと言う事です。
こんなことではおかげが受けられん。これだけは、いっちょ改まらにゃと思うておることが、なかなか改まられません。人間には我情があり我欲があるからです。けれども縋る時だけぐらいは、卑しい心を置いといて、そしてこうお頂戴をすると言う事で、頂かなきゃ。それを卑しいこと、改まらにゃならんことを改まりもせずに、改まってしまえじゃない。すがる時だけでも改めて、そこにおいて縋れと言うのですね。だからそれはなら出けんことはないでしょうが。
それを口に銜えながら、片一方の手じゃいかんと言われたら、アッと口に持っていった。そしてこれではいけん。縋る時だけでも、言うならば正しいすがりの姿勢というものを作らなければいけないという訳であります。そして縋るそれはもう痛い痒いのことから、人間の難儀の全てのことを、すがり願って良いのだ。なぜって親なんだから。そこのところの例えば、親と子という情がだんだん強うなって来るとですね、親神様の方の情も、また、こちらへ通うて来る情が濃ゆくなって来る。
人間ですから言うなら、目に角立ててこう神様が見てござるなら、もう悪かとこばっかりでしょう実を言うたら。けれどもそういう場合であっても、親だか子だから。例えば子供がまあ破廉恥なことをしたとしましょうか。恥ずかしい事を仕出かしたと致しましょうか。そういう時に親がどうでしょう。家の息子はあ貴方もうこげなこつば平気でします、こんな悪い事をしますと言う様な親は、誰もありゃしませんでしょうね。
それが他所の息子か何かなら、はぁあそこん息子さんな、あげなことさっしゃったげなばのち言うちからこう評判します。ところが親であるならば、例えばそういう場合であっても、庇わずにはおられんのです。私どもと神様の間の中にです、本当に親子としての情が交流し出しましたら、私どもの上にどんなにお粗末なことがあっても、ご無礼なことがあっても、それを神様がおかばい下さるのですね。私どもは日々神様のおかばいを受けて、おかげを頂いて。
例えば出けんでも、言うならば出けたかのようにして、おかげを下さるのです。素晴らしいでしょうその辺が。だからどうでも親子の情というものが、通うほどしの信心にならなければならない。同時に縋るならば、縋る姿勢を作らなければいけない。吉備団子を口に銜えながら、どうぞと言った様な事じゃいけない。自分が心の中にこれはいけない、こんな事じゃいかんと言う様なものは、そん時だけでもそこに置いてから頂戴をする姿勢を作らなければいけない。そしてどう言う事でも願ってもよいね。
もう人事百般それこそ、牛馬のことに至るまで実意を持って願えと、教祖も仰っておられます。そこでですその願いに筋道を立てよと。今朝から頂きますご理解の中に、あれは、会津の白虎隊という、有名なお話がございますですね。17~18の少年が集まって、言うならお国のために、言うなら城を枕に討ち死にしたという、まあ言うなら美談です。また、忠義な心なんです。
けれどもその美談と言うても忠義な心と言うてもね、一家一城の事だけ位な小さい事のために、よし命をかけてもそれは大した事はないと言う言ですね。もう本当にこんな詰らん話はないと言う事です。信心には忠義の心と言う様なものはありませんね。だからこう言う事が段々分かってくれば来るほどです、私どもの祈りが一家一城じゃなくて、それこそ天下国家の為に繋がるものでなからなければいけないと言う事なんです。
教祖様が仰る、庭の門口を掃かせて頂くでも、それは世界を清めると言う事に繋がっておりますと言うのですね、それに自分方ん前さえきれいになりゃよかと言うて、こうこういうような掃き方をしたんじゃ、ゴミはこっちの方の隣の方やら、こっちの隣の方へ行くと、自分方だけ美しゅうなりゃよかと言う様な事ではいけない。んなら掃くと言う事であっても、それは世界の一部を清めると言う事に繋がらなければいけない。
というので今日は合楽の信心を、こういう風に頂きました。これは私どもは日々の祈りなのですけれどもね、例えば日本国の繁栄ね。日本の平和と繁栄を祈らせてもらいます。または、私どもは日本に住まわせて頂いとる限り、天皇陛下を中心に国民の全部が、日本国民の全体の者がですね、立ち行かなければなりません、助からなければなりません。というてなら日本だけが反映して、日本だけが平和であれば良いと言う事ではない。日本人だけが助かって、立ち行けばよいというのではない。
それはまず私どもが助からなければなりませんが、その私どもの助かりそのものは、日本国の繁栄そのままは、世界の繁栄にも繋がり、世界の平和にも繋がり、私どもが助かって行く立ち行くと言う事は、そのまま世界中の総氏子が身の上安全と、先の教祖様がお願いになっておったように、私どもの助かりがそのまま世界の助かり、世界総氏子の助かりに繋がるようなおかげでなからなければならないと言う事でございます。
そこでなら私がそういう祈りと願いを持っておるのですから、合楽教会大発展の御神願が御成就に相成りますように。それは合楽教会だけが繁盛すりゃ良いというのではなくて、合楽教会が大繁盛のおかげを頂くと言う事は、教団の繁盛発展に繋がることでありね、言うならば人間が助かって行くと言う事は、そのまま合楽の一角に助かりの光が大きくなって行くと言う事で。
これは世界総氏子いわゆる、和賀心時代を世界に敷くと言う様な、大きな祈り願いを持っての、合楽教会大発展の御神願が御成就に相成りますようにと言う事なんです。そこで、皆さんの願いが、商売をしておる者がね、何々商店の大繁盛を、お願いをすると言う事ね。その大繁盛は、合楽教会の大繁盛に繋がらなければならないと言う事でございます。これは多くの例えば、今まで金光教の信心をさせて頂いた人が、先代の時にはもう大変、確かにおかげを受けた。
一生懸命教会のお役にも立たせて頂いたけれども、二代と続かん、三代と続かないというのはね、それが教団の助かりいや日本中いや、世界中の助かりに繋がるような、繋がりに繋がる信心でなかったからだと言う事になりますね。お百姓さんが言うならば、五穀豊穣を願われると言うても、その五穀豊穣は天下国家のために、繁盛のおかげを頂くように、豊穣のおかげを頂くように。商売大発展のおかげも、言うなら合楽教会大発展の御神願に繋がることのために、繁盛させて下さいと言う事になりますから
、それはとりもなおさず、世界の大繁盛に繋がると言う事になるのですね。でないとそれはねちょうど、白虎隊が討ち死にをしたような程度のことにしかならんのです。だから一城一家のために自分が命を、よしかけても。だから私どもはこういう願いはいかん、こういう願いはげさっかと言った様な事じゃない、どういう願いでもよい。だからその願いをいよいよ一心に願わなきゃなりませんが、その願いの姿勢とかね、言う様な事を、今日まあ聞いて頂いた訳ですけれども。
またこの十三日会というのが、御神願が成就する日と言うのですから、その御神願、神様の願いというのは世界中の氏子が、言うならば助かって行くと言う事なんです。そこで、私ども縁を頂いた者が、まず、助かりはじめなんです。そして私の助かりは、私の周囲の者の助かりに繋がって行くと、言う事に祈りの芯がね、同じ願いであっても言うなら天下国家にまで繋がって響いて行くほどしの願いにならなければ。
どんなにそれこそさかたんぼをうってお願いをして。よしおかげを頂いたに致しましても、それは大したことはないと言う事です。私が繁盛すると言う事は、合楽教会の繁盛に繋がるね。商売が大繁盛のおかげを頂く、その大繁盛はそのまま、合楽教会の大繁盛に繋がることのための願いでなからなければならない。それが本当の意味においての神願が成就することのために。
奉賛することであり、ための信心であると言う事になります。私の家の前の方だけしか掃いてはいないけれども、それは世界の一部を清めたことになる、というものに繋がらなければならない。ただ自分方の前だけ、自分方だけ繁盛すれば良いと言う様な、言うならばケチな願いから、言うなら大きな願いにならなければならない。なら大きな願いの内容というのは。
まずは私が助からなければならない、私の家が繁盛しなければならない。その繁盛はそのまま、合楽教会大発展の、御神願に繋がる。そういう願い、が成就して行くと言う事によって、願い祈りというものが、非常に大きな、しかも尊いものになって来るんです。日々のお互い信心生活の中に、また日々の祈りの中にそういう内容が、だんだん広く深くねなって行く。
それを神様が見て下さらない筈はない、神様の心に通わない筈がないね。そういう祈りを持って、だから十三日会の日だけが、神様の願いが成就すりゃ良いというのではなくてね、その一つの手本見本の様なのが十三日会なんです。だからその十三日会が、いわば四六時中になって行くような働きに、段々なって行くことが、信心がいよいよ進展しておるんだ。育っておるんだと言う事に成る訳でございます。
どうぞ願いの信心と言われる願いの姿勢。それは両方の手を持って差し出すと言う様な。自分の卑しいものは、一遍そこに置いてからね、そして願わなきゃいけないよ、というのが願いの姿勢。なら願うならば、自分一家一城のことではなくてね、日本だけが繁栄、平和であれば良いというのではなくて、世界中が平和になる事に繋がる、祈り願いが内容になからなければならないと言う様な事を、今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。